野口悠紀雄Online 特別企画

最終講義(続きその2)


 ここで重要な点が二つあるわけです。まず第一は、このような変化は止められないということです。この変化は国内産業の空洞化であるとか、あるいは安い輸出品が入ってくるために国内産業が打撃を受けるということで問題だと言われているんですけれども、しかし、とめられないんですね。むしろ今後ますます進展すると考えるべきだと思います。実際、アジアの工業化は中国で終わったわけではなくて、その後ベトナムやインドに広がっています。二一世紀の日本を取り巻く国際環境はそういうものであると考えるべきです。したがって、重要な第二の点は、日本が二一世紀で生き延びるためには、これまでと同じことをやっていてはだめだということです。つまり、高度成長を支えた産業構造を維持できないということですね。これが重要な点です。

 しかも先ほど言いましたように、この分野、つまり製造業の輸出産業というのは日本経済の中核であった分野ですから、そこが維持できないということは、日本の経済の構造が根本から変わらなくてはいけないということを意味するわけです。決して簡単なことではないわけです。このような大きな変化が、日本を取り巻く諸国に生じている。このことをまず最初に申し上げたいと思います。

 さて、今までどういうことを申し上げたか、もう一度繰り返しますと、日本を取り巻く諸国で過去一〇年、あるいは二〇年ぐらいの間に工業化という大きな変化が生じたということを言いました。その中で日本が生き延びるためには日本の産業構造が変わらなければいけない、こういうことを申したわけです。それでは、日本が変わったかどうかということが問題になります。この点についてこれから考えてみたいと思います。

 確かに変わった面もあります。特に技術は変わったわけですね。そのキーワードは言うまでもなくITということなんですが、情報通信技術の進歩ですね。これによって、我々の、つまり大学にいる人間の生活のスタイルというのは一変したわけです。二〇年前のことを思い出しますと、石器時代のような気がするんですけれども、それほど大きな変化が生じています。

 幾つか申しますと、例えば二〇年前、私は一橋大学にいましたが、このとき、私の研究室は大型コンピュータのアウトプットであふれ返っていたんです。これはもう本当にどうしょうもない代物で、プリントアウトした紙が机の上に山のようになっていて、どうにもならなかったんですね。今、そういうものはなくなりました。これはITの成果です。大型コンピュータに依存する必要がなくなった。パソコンを使えるようになって研究室は非常にすっきりしました。

 それから、もう一つは、私は一橋から東大に移るときに本をたくさん段ボールのカートンに詰めて持ってきたんですけれども、そのうち半分ぐらいは開いていないんですね。それは何かというと、統計の本です。統計の本は今までは大体書架の半分ぐらいを占めていて、どうしても必要だったんですけれども、それを使わなくなった。それはどうしてかといいますと、インターネットでデータが得られるようになったからですね。これも研究室の姿を非常に大きく変えました。

 そのほかにも大変大きな変化がいろいろあるわけで、先ほど二〇年前は石器時代だと言ったのは、そのとおりなんです。

 もう一つ申しますと、洋書を買う環境も非常に大きく変わりました。皆さんもご存じだと思いますが、アメリカのアマゾン・コムという書店があって、そこからインターネットで本を買える。何が変わったかといいますと、本を買えばすぐ届くということです。今から五年前ぐらいまでは、洋書を買うと大体三カ月は待たされるというのが普通だったんですね。ということは、例えば本を書いていて参考にしたいといっても、すぐは見られなかったんです。図書館にある本なら見られますけれども、新しい本だと買わないとない。だから見られない。これはアマゾン・コムで非常に大きく変わりました。すぐに見られるようになったんですね。これも原理的には学者の生活スタイルを変えたわけです。

 ただし問題はこれから後なんですが、それではそれを国立大学で使えるかという問題が出てくるんですね。使えないんです。なぜかと言いますと、国立大学の研究費で本を買うためには、私もよく知らないんですが、納品書を出して、請求書を出して、何とかを出してと、たくさんの書類を準備しなくちゃいけないんですね。アマゾン・コムで買って、クレジットカードで払ったから後で精算してくださいというわけにいかないんです。したがって、マアゾン・コムは使えないんですね。外務省ですと機密費が使えるから、こういう書類は必要ないんですが、我々は機密費が使えないのでアマゾン・コムは使えない。(笑)つまり最新のIT技術を使えないんです。この点は非常に重要なことだです。技術は変化したんですね。しかし、社会制度が変化していないわけです。だから使えないんですね。実はこのことをこれから幾つか申し上げたいと思いますけれども、これが日本の抱えている非常に大きな問題です。

 今お話ししたのは国立大学の話でして、国立大学というのは化石生物みたいなものですから、使えなくてもやむを得ないと思う方はいらっしゃるかもしれませんが、しかし、これは国立大学の話だけではないんです。日本全体で果たしてインターネットを使う書籍の販売が使われているかどうかということですね。もちろんそういうことはなされていますよ。丸善とか、紀伊國屋とか、たくさんなされています。しかし、使われているかどうか。日本全体でインターネットを使う書籍の販売がどのくらいあるか皆さんご存じですか。驚くべきことに、日本全体のインターネット経由の書籍の販売額がアマゾン・コム一社のわずか三%なんです。つまり、ほとんどないと言っていいくらいなんですね。ちなみに、この数字は去年は五%でした。ですから下がってしまっているんですね。なぜ下がったかというと、アマゾン・コムは成長するけれども、日本は変わらないから下がっちゃったんですね。

 では、なぜ使えないか。これが問題です。その前に、なぜアマゾン・コムが成長したかといいますと、その答えは非常に簡単なんです。安いからなんですね。アマゾン・コムで買いますと、町で売っているものの二割引きとか三割引きとか、場合によっては五割引きとか、そういうふうに安いんです。なぜ安いかといいますと、インターネットだとコストが低下するからなんですね。なぜコストが低下するかといいますと、インターネットで本を売れば、いろんなものが不必要になる、要らなくなるんです。まず店が要らない。それから店員が要らない。店に置いておく在庫が要らない。こういうものがないから、コストが下がるんですね。ちなみにつけ加えますと、インターネットでは万引きもないから安いんだという説もありますが(笑)、それは別として、とにかくコストが下がる。それが本の価格を低くすることに反映されているんですね。

 では、日本でそれができるかといいますと、原理的にはできます。同じ技術を使っているんですから、できますけれども、しかし、現実に日本で本が安く買えるかといいますと、だめなんですね。日本のインターネットの本屋さんでは本を安く買えません。なぜ買えないか。皆さんご存じだと思いますが、それは再販制という制約があるからですね。日本では本を安く売ってはいけないという規制になっているからです。だから安く売れない。日本でインターネットで本を買えば配送料だけ高くなります。これで買う人がいるかというと、いなくはないけれども、それで買うのは変な人ではないかと私は思います。私も買ったことはあります。インターネットで本を売り始めたときに買いました。クリックすると二〜三日後に本が届く。確かにおもしろいと思いましたけれども、まあ、ずっとやるかというとやらないですね。

 アメリカではごく当たり前のことが起こっているんですよ。安いから買う。同じもので安ければ安い方で買う、これは経済学の一番基本的な原理ですよね。原理なんていうのが恥ずかしいほど当たり前のことです。アメリカでは当たり前のことが起こっているんです。日本では変な人しか使えない仕組みになってしまっている。これが問題なんですね。ここでも問題は、技術ではなくて社会制度なんです。技術は変わったけれども、社会制度が変わらないからだめなんですね。

 では、再販制を変えたらいいじゃないかとおっしゃる方がいらっしゃるかもしれない。確かにそうです。再販制というのは規制ですから、変えようと思えば変えられる。しかも政府の規制ではありませんから、変えようと思えば変えられますけれども、私はこれは大変難しいと思います。なぜ難しいかと言えば、それは新聞社がいるからなんですね。きょうも実は新聞社の方、出版社の方がお見えなんですけれども、あえて申し上げれば、新聞も再販制の対象なんですね。だから、新聞社は再販制堅持なんです。たしかことしの初めごろだったと思いますが、日本のすべての大新聞の一面に、日本の文化を守るために再販制堅持という大キャンペーンがありました。これが続く限りは変わらないんですね。日本の新聞は一方で日本でもIT革命を推進せよといって、一方では再販制堅持といっているわけです。これが日本の現実です。

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